夜と霧 (ヴィクトール・E・フランクル)を読みました。
数年前から読みたい本リスト(脳内)に載せていたけれど、
リスト入りしてからしばらくは、手にすることがありませんでした。
そして
3/11の震災時、2階の床に乗って津波にかなり流されたという方が
「『夜と霧』を読んでいたことで冷静で対処できたのではないか」と
おっしゃっていたという話を耳にし、やっと手に取りました。
結果として、今手にすることに意味があったということなんですけれどね。
色々と感想はあります。
けれど言葉にすることがとても難しいというか、軽くなるのが歯がゆく思えるというか・・・。
だけどだけど、思ったことの中の1つを、ちょこっと書いてみたいなぁと思います。
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「強制収容所ではたいていの人が、
今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」
けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮させれたのだ。
おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、
あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。
+++++ 夜と霧より抜粋 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
これを読んで、
自己啓発的な本などではおなじみ、
「未来は自分が創造している」ということを思い出しました。
耳にたこができるくらい(?)聞いたり、読んだりしたこの辺のことを、
自分ではわかっているつもりになっていました。
それを十分に体験を持って知っていると思っていたつもりだったのだけれど・・・
ここを読んで、ハッ!と、
最後の一枚の薄布のようなものが、取り去られたように感じました。
創造したい未来を夢に見、希望に胸をふくらませ、
忍び込んでくる不安とは闘うのではなく、希望でくるむのだ! と、日々葛藤する。
いやいやそれ自体すでに闘ってますよ、と。
行きたい場所(文字どおりの場所という意味だけでなく)への思いをめぐらせるのも結構。
それをありありと思い描くことが未来へつながる、
そのための手段が描くことなのだと思っていたけれど、
そうではなくて
(いや、完全にそうではないという意味でもないんだけどさ)
そうあろうとすること、そういう自分でいることを選択すること、
その行為自体が
その未来へとつながっているのではないかなと。
その瞬間がすでに、創造だったのだと。
それがもう、その未来だったのだと。
そう、気付きました。
だとしたら、私は闘わずに行こう。
私はそれを、選択しよう。
その創造をはじめ、それを紡いでいこうじゃないかと。
最近考えていることとリンクした箇所を抜き出してみました。
「夜と霧」、気になった方は読んでみてください。
そんなに分厚くないですので、お時間とりませんから。(笑)
色々なことを考えさせてくれる本です。
よかったら、是非!
